今回は私の勝手な思い込みを書き留めました。なので、サラッと読み流してください。
最近写真撮影を始めて、改めて気付いたことがあります。
全くの写真素人なので、構図のことが解らず、調べていくうちに『引き算しなさい』と言うことを教えられました。
要するに、「観る人に何を訴えたいのか、そこだけに絞り込んで、不要な部分は思い切って削り、余白を作りなさい」という事らしいです。
『引き算』することで、あるがままの風景が、芸術的味わいを持った景色に変化する…… 今更のことですが、その事を再認識しました。
では何故、そういった作業は風景を一変させるのでしょうか?
私なりに考え、“想いはかる”という単語で説明したいと思います。
「思い量る」とか「慮る(おもんぱかる)」といった言葉があります。その意味は“思いを巡らす”という事です。
“想いはかる”とはこれらの言葉とほぼ同義語と思って下さい。
今回『思』でなく『想』を使ったのは、『想像力』の『想』を強調したいためです。
何でもない風景・事象の中にある『エッセンス』を取り出し、そこで生じた『余白』に、受け手側がそれぞれの想像力を膨らまし、自分なりのスケッチをして、心象作品とて完成させる……
その一連の行為を“想いはかる”という言葉の真意にしたいと思います。
俳人の黛まどか氏は俳句の『余白』について、次のように語っています。
俳句は一七音節からなる世界で一番短い詩である。
それらの言葉が紡ぎだす余白には、情感や情趣、作者の思いなどが余情として漂う。
読者は表現されたわずかな言葉を手掛かりに余白を察し、言葉の周辺にあるものや背後にあるもの、見えないものを感受する。
そしてそのことは、作者の感動を再生産し追体験することに繋がる。
その考え方を参考にすると
『華道』『茶道』『日本画』『茶室』『日本庭園』『石庭』など
日本人は古くから、〈余白〉の持つ情趣を「想いはかり」、美意識として持ち続けて、様々な芸術を創り上げて来ました。
すなわち、日本の伝統文化は「引き算の美学」で成り立っているのです。
翻って、現代の日本文化はどうでしょうか?
ネット社会の中、検索すればあらゆる情報が手に入ります。
「足し算の美学」は、それはそれで素晴らしい文化を生み出しています。
でも、何故かそんな文化に頭が疲れてきたような気がします。
あらゆるものを、ジグゾーパズルのピースのように組み込んで、完璧すぎるものを作り上げている気がします。
“想いはかる”隙が無いように感じます。
隙をつくること、言い換えると“想像力”に任せる感性を大切にすることは、日本人の最も得意とするところです。
どうしたのでしょうか?
皆さんの中にも薄々、そんな想いを抱かれている方もいらっしゃると思います。
そう思っていた矢先、ある楽曲をたまたま耳にし、“想いはかる”ことの愉しさを久しぶりに実感しました。
単調で、もの憂げな弦楽器の不協和音が作り出す『余白』を背景に、ピアノの気怠い旋律が続きます。
すると、祈りにも近い美しい旋律が突然現れます。まさに『エッセンス』の部分ですね。
この瞬間、受け手側の私は想像力を膨らませ、自分なりのスケッチをして、光のある心象作品として完成させることが出来ました。
久しぶりの感動でした。
それは、坂本龍一の『美貌の青空』という曲です。
“想いはかる”ことで、曲名に込められた意図が何となく伝わって来た気がします。
本論から外れますが
“想いはかる”ことは、人間関係の基本かもしれませんね。
と言うのも
愛する人(夫婦、親子、恋人)の輪郭、表情、仕草、口癖など、その人の最もコアな部分
言わばその人の本質的な魅力を、絶えず“想いはかり”慈しむ……
その積み重ねが深い愛情に連なるのではないかと、私なりに理解しているからです。
最後に
私は最近、心掛けている事があります。
テレビや新聞・雑誌・ネットなどから、情報がいや応無しに入り込んで来ていると感じる時は、目を閉じます。
そして、目を閉じたまま深く呼吸し、光や音をイメージします。「余白」を作り、気分をリセットし、自分が本当に欲しているものを“想いはかり”ます。
頭が固くなったのだと思います。でもそうしないとパンクしてしまいます。
皆さんはいかがでしょうか?
「六月や かぜのまにまに 市の音 」 〜石田 波郷〜