(薬師池公園にて)
今日は日本を代表する文豪”芥川龍之介”が亡くなった日です。没後91年になります。
短編小説の傑作を生みだし、後世の文学界に強烈なインパクトを与えました。
その短編の中で誰もが一読した小説があります。ご存知の「蜘蛛の糸」です。
その文章の中で次のような箇所があります。
< 冒頭部分>
ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。
<末尾部分>
御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。
しかし極楽の蓮池の蓮は、少しもそんな事には頓着致しません。その玉のような白い花は、御釈迦様の御足のまわりに、ゆらゆら萼を動かして、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽ももう午に近くなったのでございましょう。
このように”蓮の花”は、極楽浄土の象徴として描かれています。
芥川龍之介でさえ、伝統的な仏教思想のシンボルとして”
蓮の花”を描いていることで、改めて”
蓮の花”の存在感が浮き彫りになります。
「蓮の花は泥水が濃ければ濃いほど、大輪の花を咲かせる」と言われます。
泥水とは人間の煩悩であったり、不運や辛苦のことであり、その苦労を乗り切った先に大輪の美しい花が咲くというのが仏教の教えです。
したがって、その妖しい魅力の向こうには、日本人の伝統的・思想的な価値観を垣間見ることが出来ます。
お盆の時期を迎え、ごく自然に”蓮の花”の美しさに感動したり、日本人が受け継いできた思いを大切にしたいと、写真を見ながら改めて思い入りました。