先日、久しぶりに落語を聞きに行きました。
私の大好きな柳家さん喬師匠が、「横浜にぎわい座」で独演会を開くとの情報が入り、ずいぶん前にチケットを購入しました。
人気噺家ということで予約が取りづらく、にぎわい座の会員として何とか席を確保した次第です。
柳家さん喬師匠のことは、<落語シリーズ vol.2>で詳しく紹介しています。
今年春の褒章で「紫綬褒章」を受賞した真の実力者です。
「横浜にぎわい座」は野毛(飲み屋街)のそばにあるため、みなとみらいエリアに駐車し、夜景を撮影しながら、会場まで歩きました。
<クイーンズタワー裏玄関からマークイズを望む>
<ランドマークタワー内広場>
<帆船日本丸>
ゆっくり歩いて約15分、「横浜にぎわい座」に到着です。(開場18:30 開演19:00)
<横浜にぎわい座とは>
- 2002年に開場した横浜市が管理している4階建ての施設です。(3~4Fが芸能ホール)
- 寄席から大道芸、奇術などあらゆる大衆芸能に対応しています。
- 現在の館長(5代目)は横浜市出身の『桂歌丸』師匠です。
開場間もない中の様子です。開演前には満席になり、外人さんも多数居ました。恐らく日本文化を研究しているのでしょう。休憩時間にはお互い熱心に語り合っていました。噺の内容・日本語の独特のニュアンス・風習等が理解できるのでしょうか?
表題の通り、この日は『江戸吉原の廓話』を三席披露しました。
廓話(くるわばなし)とは
古典落語の中でも特に人気の高い噺が廓話です。
廓話とは”遊郭を扱った落語”の事を言いますが、その昔、戦時中の1941年、時局柄にふさわしくないと廓話や間男を扱った演目など53演目が自粛対象となり、禁演落語として上演を禁じられていた時期がありました。
もちろん今は禁止はされていませんので、寄席でも独演会でも聞く事が出来ます。
江戸吉原とは
吉原は江戸時代の始め、幕府公認の遊郭として作られました…初めは江戸城に近い市街地にありましたが、江戸の急速な発展に伴い、17世紀半ばに町の外れに移転します。そのため、新吉原とも呼ばれました。(今年は設置許可されてちょうど400年になります。)
広さは2万坪、全国にあった遊郭の中でその規模は最大、周囲に水を巡らせ侵入者を防ぐその姿は、城郭のよう…入口は吉原大門のみ、ここを通れば身分も地位も関係無し、だから遊郭の中では籠の使用は禁止、武士も刀を預けなければいけませんでした。
本日の三席について
五人廻し
<あらすじ〉
舞台は夜ふけの遊廓・吉原。売れっ子の花魁、喜瀬川は五人のお客をとったが、一人のお客の部屋に居たっきりで、ほかの部屋を廻らないので、振られた男たちは不満たらたら。可哀想なのは廓の若い衆(=お客様雑用係)だ。
「三歳から大門をくぐっている」という男からは江戸弁で啖呵を切られ
役人とおぼしき男からは軍人口調で「廓に爆弾を仕掛ける」と脅かされる。
そうかと思えば妙な言葉遣いの通人からは、真綿で首を絞めるようなイヤミを言われたあげく、焼け火箸を当てられそうになる。
若い衆はようようのことで、喜瀬川のところへ。今夜、喜瀬川がずっと相手をしているのは田舎者のお大尽で、一部始終を話すと、お大尽は「玉代を返して帰って貰え」と言い出します。
そこで各人に50銭ずつ貰って返して、返って貰いました。その後、喜瀬川も「もう50銭おくれよ」とねだります。
「しょうがねえなあ~子供なんだから」と言って50銭渡すと、「あんたにも50銭返すから、帰っておくれよ」
<予備知識>
”廻し”と言う制度は関東にしか無かったそうですが、古くは上方でもあったそうです。
”廻し”とは、花魁が一晩で何人ものお客を相手するシステムです。
お客さんの居る部屋は小さい部屋で、布団が敷いてあるだけで一杯になる狭さだったそうです。そして殆どのお客相手には衣装すら脱がず、体に指一本触れさせなかったそうです。
<感想>
当時廓では、待てないからと言って何か言うのは「野暮」とされていました。そんな鬱屈した登場人物のそれぞれの表情・性格を、生き生きと表現している語りには驚かされました。
明烏(あけがらす)
<あらすじ>
異常なまでにまじめ一方と近所で評判の日本橋田所町・日向屋半兵衛のせがれ時次郎。今年十九だというに、いつも本にばかりかじりつき、女となればたとえ雌猫でも鳥肌が立つ。
堅いのも限度がある、いい若い者がこれでは、跡継ぎとしてこれからの世間つき合いにも差し支えると、かねてからの計画で、町内の札付きの遊び人・源兵衛と太助を「引率者」に頼み、一晩吉原で遊びのレッスンを受けさせることにした。
半兵衛は、本人にはお稲荷さまのおこもりとゴマかし、「お賽銭が少ないとご利益(りやく)がないから、向こうへ着いたらお巫女(みこ)さん方へのご祝儀は、便所に行くふりをしておまえが全部払ってしまいなさい、源兵衛も太助も札付きのワルだから、割り前なんぞ取ったら後がこわい」と、こまごま注意して送り出す。
太助の方はもともと、お守りをさせられるのがおもしろくない。その上、若だんながおやじに言われたことをそっくり、「後がこわい」まで当人の目の前でしゃべってしまったからヘソを曲げるが、なんとか源兵衛がなだめすかし、三人は稲荷ならぬ吉原へ。
いかに若だんながうぶでも、文金、赭熊(しゃごま)、立兵庫(たてひょうご)などという髪型に結った女が、バタリバタリと上草履の音をさせて廊下を通れば、いくらなんでも女郎屋ということはわかる。
泣いてだだをこねるのを、二人が「このまま帰れば、大門(おおもん)で怪しまれて会所で留められ、二年でも三年でも帰してもらえない」と脅かし、やっと部屋に納まらせる。
若だんなの「担当」は十八になる浦里(うらさと)という絶世の美女。「そんな初々しい若だんななら、ワチキの方から出てみたい」という、花魁(おいらん)からのお見立てで、その晩は腕によりをかけてサービスしたので、堅い若だんなも一か所を除いてトロトロ。
一方、源兵衛と太助はきれいさっぱり敵娼(あいかた)に振られ、ぶつくさ言いながら朝、甘納豆をヤケ食い。若だんなの部屋に行き、そろそろ起きて帰ろうと言ってもなかなか寝床から出ない。
「花魁は、口では起きろ起きろと言いますが、あたしの手をぐっと押さえて……」とノロケまで聞かされて太助、頭に血が昇り、甘納豆をつまんだまま梯子段からガラガラガラ……。
「じゃ、坊ちゃん、おまえさんは暇なからだ、ゆっくり遊んでらっしゃい。あたしたちは先に帰りますから」
「あなた方、先へ帰れるなら帰ってごらんなさい。大門で留められる」
<感想>
いつの時代も、父親は子供のことは心配なもの。ただし、ここまで面倒見ることはあまり無いかも……
堅物な若旦那の生真面目な仕草と、花魁との邂逅後のふわっとした表情のギャップがくっきりと表現されていて、さん喬師匠の実力がよく分かりました。
お直し
〈あらすじ〉
人気盛りを過ぎた吉原の女郎と牛太郎が許されない関係に落ちたが、店の旦那は二人を一緒にした上で、女郎はおばさんとして引続き働かせてくれた。
しばらくまじめに働いたが、お金に余裕が出来ると男が博打に手を出し、借金だけが残った。
途方に暮れているところに、「けころ(=最下級の女郎屋)」に空店があるが商売をしないかと誘いがあり、カミさんが女郎になり、男が若い衆として女郎屋を始めた。
けころでは、線香一本が燃え尽きる時間で料金が加算され、これを「お直し」という。
カミさんが客に「好きだとか、夫婦になりたいね」とか色良い返事をする度に焼きもちを焼き、「直してもらいな」「あら、お直しだよ」と繰り返し言って、一人目の客をあしらった後で男がぼやく。
「止めた、止めた、馬鹿らしくてやってられねぇ、俺と別れてあの客と一緒になるのか」
「馬鹿だねこの人は、客あしらいに決まっているだろ。こんなに妬かれるなら止めるよ」
止められては困ってしまうから、もう妬かねぇから、もう一度頼むよ。
そこへさっきの客が戻って来て、「直してもらいなよ」
<解説>
つまり騙された客がすっかり亭主気取りで、客と亭主の立場が逆になっているよというオチです。
<感想>
健気で気丈に振る舞う妻の姿を、物の見事に演じるさん喬師匠には圧倒されました。
閉幕後、時間を見ると午後9時半でした。あっという間に2時間半が過ぎていました。
その後、歩いてみなとみらい地区に引き返し、帰路に着きました。
最後に
昨年から本格的に落語を聞きに行くことになりました。
落語は日本の伝統演芸であり、日本の誇るべき無形文化財産ですね。
噺家は座布団と扇子と手ぬぐいさえあれば、どこでも落語を演じることができます。
この伝統演芸は日本国内に留まらず、世界の人々にも少しづつ浸透しつつあることを実感しました。
現在の落語ブームが一過性のもので無い事を切に願いたいものです。