専門家が2045年に到来すると主張している『シンギュラリティ』について、“近未来ショートストーリー”風に説明したいと思います。
勝手な想像も含まれていますが、イメージを掴んで頂ければ幸いです。
困難に向かい合ったとき、もうだめだ、と思ったとき、想像してみるといい。
三時間後の君、涙がとまっている。
二十四時間後の君、涙は乾いている。
二日後の君、顔を上げている。
三日後の君、歩き出している。
以上『本日は、お日柄もよく』(原田マハ作)より
自分の将来が不安になったとき、自分の存在価値が見つけられないとき、想像してみるといい。
・一年後の君、そんな未来なんか《SFの世界》と一笑に付している。
・十年後の君、ヒューマノイドに真剣に悩みを相談している。
・2045年の君、仕事から解放されている。
2045年3月31日、今日は日差しが暖かい。
横浜MM地区の高層マンション、海側の24階。バルコニーからベイブリッジが見渡せる。
淡いグレーの壁紙を基調とした寝室。シモンズ製クイーンベットの寝心地は最高だ。
「おはよう 隼人、起きて! もう9時よ」
Sakuraはそう言って台所に向かう。
「あ〜 もうそんな時間⁈」
「痛え」
昨夜はフットサルのやり過ぎで足腰が痛い。
自家生産している植物・肉・魚のエキスをそれぞれ基礎素材と一緒にミキサーにかけた後、料理用3Dプリンターに入れ、隼人好みでバランスの取れた朝食レシピのスイッチを押した。
「隼人 朝食できたわよ。」
「おはよう、Sakura 僕の大好きなものばかりだけど、元町Bluff・Bakeryのクロワッサンは特別だね。この渦巻きのような姿が面白い。バター控えめで、生地の重さの割にあっさりとした食べ応えが好きなんだ。」
「可愛いSakuraも一緒に食べちゃおかな。ナンチャッテ(^_^*)」
でも、Sakuraは表情を変えない。
いくらAIヒューマノイドが進化したとは言え、 ”冗談”とか”面白い”とか’’可愛い’’とかの感覚は理解できないのだ。
でも、”ディープラーニング(深層学習)”をコツコツとやってくれるので、僕が望んでいることは、言葉にしているうちにちゃんと対応してくれるようになる。
だから、Sakuraのことはとても気に入っている。
「そう言えば、 隼人 明日から新しいボスが来るのね。」
「そうなんだ。 AI界切ってのニューヒーローとの噂だよ。」
「どんなヒーローなの?」
「全人類が1万年くらいかけて学習した量の情報をわずか1日とか1時間とか1分という恐ろしいスピードで学習して、1秒(もしくは0.001秒とかで)で最適な答えをアウトプットすることができる、恐ろしいほどパワフルなAIロボ部長だそうだ。」
「それって、 要するに人間の知能を超えたってことなの?」
「そうだね。もっと正確に言えば、人とAIが融合して、生物的な進化の限界を超えた新しい知能が誕生したということになる。」
「実は、今までの世界とは全く異なる、不連続な世界のスタートを、専門家はシンギュラリティ(=技術的特異点)と呼んでいるだけど、今年2045年が正にそのスタートらしい。」
「そんな凄いボスならどんなことをやってくるの?」
「実を言うと、全く分からないんだ。新ボスは自分で自分より優秀なボスを作る事ができるんだ。そうすると、更に優秀なボスが加速度的に誕生して、天文学的な進化を遂げることになる。もはや、人間レベルでは予測不可能な未来が訪れるんだ。」
「私は人間じゃ無いから感情は理解できないけど、隼人の今までの表情パターンから考えと、今は’’不安’’と言われている感情が一番合ってるのかしら?」
「“不安’’だらけだよ。でも、心配してもしょうがないし…ああ、そろそろ仕事しないと。」
「そうよ。そうじゃなきゃ、隼人」
隼人の肩書きは、横浜市の「AISE」 今年29歳。
「AISE」とはAI専門のセキュリティスタッフの事だ。
仕事は半ばボランティアでやっている。
なぜボランティアなのか?
実は…
AIの進歩で超IOT化が進み、生産性が極めて高くなり、5年前からモノやサービスはほとんど無料になった。
料理用の食材エキスや3Dプリンターが発明されたのも、その恩恵だ。
エネルギーや衣食住がオールフリーになった現時点で、社会構造は全く変わった。
究極の地産地消型社会、もしくは共有型経済社会になったのだ。
20年前から、政府は来るべき共有型経済社会を展望し、「人口が減っている中、労働力補完のためAIを最大限活用する」と宣言して様々な施策を練ってきた。
現在では、AIが働いて得た利益から納められる税金を仕事に就いていない人びとに分配し、社会保障の充実に繋げている。
なぜ半ばボランティアなのか?
要するに、基本的に「人間が労働から解放された」からだ。
「自分の能力を活かし、この部分に貢献した」と自分の気持ちに純粋になれることが嬉しい。だから、収入には拘らないし、現実必要性も感じていない。
なぜ、AISEなのか?
高度AI世界で最も恐ろしいのは、核戦争でもバイオハザートでも無い。《サイバー攻撃》だ。
この攻撃から、国家は絶対に国民を守らなければならない。
国民の10パーセントがAISE として日々活動している。
隼人は隣部屋のヴァーチャル・オフィスに足を向けた。
15年前、横浜市庁のAISE部署は入居しているビルから撤退して、ヴァーチャル・オフィスを立ち上げた。
五感全てを組み込んだ完全没入型のヴァーチャル・リアリティ環境が出来上がり、現実のオフィスを使う理由が全く無くなったのだ。
隣部屋の小型カプセルに入ってヘッドセットを付ければ、そこはもう職場で、仲間たちが変らぬ様子で働いている。
いつものように夕方5時まで働いて、「ではお先に失礼します。」と挨拶し、ヘッドセットの接続を切り、リビングに向かった。
夕食はできるだけ外で頂くことにしている。
老舗の美味しい料理はレシピをダウンロードすれば、料理用3Dプリンターで正確に再現できる。
でも、創作料理はそうはいかない。AIには美味しいものを美味しいと感じる味覚センサーが無いのだ。
今までに無かった美味しい料理を、自ら創り出すことが出来ない。
だから、新たに料理が創作されて美味しいと評判なると、すこし遠くても車を飛ばして味わいに行く。
今夜は、銀座5丁目にある創作和食「SUMIRE」に予約を入れていた。
この店は、旬の鮮魚を毎日築地に出向き、ベストのものを厳しい目で選び抜くのは当然だが、信頼される炭屋から取り寄せる備長炭で焼き上げる、こだわりの焼き物は秀逸との評価なのだ。
夕方6時「じゃあ、行ってくるね。」とSakuraに玄関口で声をかけると
「いってらっしゃい。」といつものように笑顔で送り出してくれた。
20年前から完全自動運転化されたマイカー「LEXUS・PA」の助手席に腰を下ろし、ナビゲーターに向けて
「今から銀座5丁目のSUMIREにいくから、7時に着くよう頼むね。」と話しかけ
「くれぐれも事故のないように」と念を押すと
「かしこまりました。安全第一でご主人さまをお送りします。」と落ち着いた50歳前後の男性の声でナビゲーターが答える。
食後…
「やあ、本当美味しかった。」と心底満足した表情で「創作和食」と大きく毛筆で縦書された暖簾を腕押して、車に向かう。
「思った通り、表面はパリッと中はふっくらな味わいだった。シンプルなのに素材本来の美味しさが際立っていたなあ。到底3Dプリンターでは作れない。」と独りごちた。
時計を見たら、まだ8時を過ぎたばかり。
車を走らせ、横浜駅東口のスカイビルを目指す。
これからは趣味を楽しむ時間だ。
隼人の趣味はフットサルとクラシックギター。
クラシックギターは5年前から始めた。あの優しく切ない弦音を気に入っている。
夜9時5分前、ぎりぎりレッスン時間に間に合った。
今日の課題曲は「早春賦」。この季節にぴったりの曲だ。日本人で最も著名な作曲家「武満徹」の編曲がまた良い。とてもお洒落な和音の響きが、早春の息吹きを感じさせる。
国民の大半が労働から解放された現在、70%以上の人々が趣味に嵩じている。
国民が健康体を取り戻すと、医療費負担は減少し、日本の国民コストは激減、10年前から財政収支はプラスに転じた。
40分のレッスンを終えると、歩いてみなとみらいの自宅マンションに帰った。これも健康のためだ。
自宅(ウチ)に着くと、今日の疲れがどっと噴き出してきた。
「お帰りなさい。隼人」
Sakuraは極力明るく振る舞った。これもディープラーニングのおかげだ。
少し元気を取り戻し、お風呂場へと向かう。
ひとりになりたかった。
ゆっくりとバスタイムを過ごし、真っ直ぐ寝室に向かった。
ベット脇には最高級モルトウイスキー「響30年」のオンザロックが置いてある。Sakuraの学習能力には舌を巻く。
滑らかで重厚なコクを味わいつつ、熟した果実香の余韻を長く愉しむ。
旧式のオーディオ端末にそっと触れる。
『ジムノペディ.No1』が流れてきた。フランス新印象派、「エリック・サティ」の代表的ピアノ曲。ゆったりとした3拍子の旋律が深い愁いを呼び起こす。
「明日からどうなるのだろう?」
さっきまで敢えて口にしなかった得体の知れない恐怖が体にまとわりついている。
逃げるようにベットに潜り込み、寝室の灯りを消す。
ゆっくりと正確な3拍子のメロディーは、昨日・今日の疲れも加わり、否応無しに隼人を眠りに誘う。
「どうなるのか………」
まぶたが閉じる。
いつの間にか、静かな寝息を立てていた。
隼人は夢を見た。
マンション前の小径で父親と自転車乗りの練習をしている。
小学校に上がる前に、何としても乗りたかった。
何度も何度もチャレンジするが、父親が自転車から手を離すと、転んでしまう。
泣きべそをかきながら、また繰り返す。
父親は決して優しい顔はしない。
西陽が差して来た。
もう何十回繰り返したんだろう。
もう、くたくただった。悔しかった。
「もう一回……」
リビングのソファー、父親と並んで座っている。
父親がしっかりと左腕を自分の肩に回している。
『温かい』
言葉に出来ない安堵感が体全体を包んでいる。
ハッとして、目を覚ました。
目元が少し潤んでいる。
時計を見る。まだ12時を回っていない。
『もう大丈夫』
温かい肌の温もりは決して消えない。
訳もなくそう思った。
いよいよ、明日から新しい時代が始まる。
ベットから立ち上がり、窓越しに見る星空に向かい大きく息を吸った。
『もう大丈夫』