3年前から楽しみにしていた。
JR東海「大人の休日俱楽部」のテレビCMで、吉永小百合が五色沼にボートを浮かべ、双眼鏡を覗き込んでバードウォッチングしている姿を目にして以来、 無性に裏磐梯に行きたくなった。
翌年の夏は稀に見る豪雨のため旅は中止となったが、昨年夏やっと念願が叶った。
旅行初日
東北道を飛ばし、お隣の喜多方に昼前到着。 先ずは腹ごしらえで
1.喜多方 ラーメン 食堂「はせ川」へ
老舗で評判も良いため予想通り1時間待ち。そしてやっとの事で店内へ。
一番人気の煮干しと鶏ガラの出汁を使った醤油 ラーメンに、バラ肉チャーシューと煮卵をトッピングで加え注文。
とてもバランスの取れた優しいスープで、何度食べても飽きない味だった。店主の人柄が”味”や”応対”に出ていた。食後
2.喜多方の名刹「願成寺」を参拝。
1227年、法然上人の高弟「隆寛」律師を開山上人に仰ぎ開基した浄土宗の寺である。
国の重要文化財、木造阿弥陀如来坐像(=會津大佛 )と両脇侍坐像は 荘厳かつ煌びやかであり、思わず息を飲む美しさだった。
旅行2日目
当日は裏磐梯のリゾートホテルに泊まり、翌日はガイドさんの案内で朝から
3.五色沼を散策。
明治21年の磐梯山大噴火により山体崩壊が起きた。その際「流れ山」と呼ばれる岩の塊が低地に流れ出し、塊の間に水が溜まり出来たのが五色沼とのこと。(写真は弁天沼)
池ごとに緑、青、赤と色が違うのは、水源の水が地下を通り各池に流れ込む迄の間に、火山性の硫黄や鉄分の配分が変化するため。強酸性のため魚は住んでいない。
4.会津若松の居酒屋「籠太(かごた)」へ
ホテルのチェックアウト時に車のトラブルがあり、予定を急きょ変更し郡山まで引き返す羽目に。結果、時間を大幅にロスし夕方近くになったため、会津若松駅近くのホテルにチェックイン。その夜は繁華街へ。郷土料理と地酒で評判の居酒屋「籠太」の暖簾をくぐった。
料理、お酒とも旨く大満足。特に焼き鳥と馬刺しが絶品だった。
旅行3日目
翌朝は早めにチェックアウトし
5.「白虎隊十九士の墓」がある飯盛山へ
”白虎隊”は、1868年の会津戦争に際し、16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊。
本来は会津藩の予備兵力であったが、会津軍の劣勢のため前線へ投入された。しかし、奮闘むなしく撤退を余儀なくされ、飯盛山へ落ち延びた。このとき、ここから眺めた市中火災を目の当たりにして、総勢20名が自刃を決行し19名が死亡した。「武士の本分」がそうさせたのだろう。いづれにせよ、前途有望な若者が命を絶つことは悲惨である。
その後、飯盛山の中腹にそびえ立つ
6.「会津さざえ堂」へ
1766年に建立された高さ16.5Mの六角三層のお堂だ。その独特な2重らせんのスロープに沿って西国三十三観音像が安置されている。上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造で、参拝者がすれ違うことのない世界的にも珍しい建築様式になっている。
次に向かったのが
7.「大内宿」
会津若松市から車で約30分程度南下した山間にある宿場。会津城下から3番目の宿駅として1640年頃に整備された宿場町で、現在は「国選定重要伝統的建物群保存地区」としてかなり綺麗に整備されている。
茅葺きの民家が道路の両側に建ち並び、道路の側溝には山からの冷たく澄んだ水が絶え間なく流れており、スイカが冷やされていたのが印象的だった。
再び北上して
難攻不落の名城と謳われ、戊辰戦争で新政府軍の猛攻の前に籠城一ヶ月、城は落ちなかった。これは大河ドラマ「八重の桜」で詳しく描かれている。明治7年に法律により石垣だけを残し取り壊された。
その後、たくさんの人々の寄付により昭和40年9月に蘇り、平成23年春には幕末時代の赤瓦をまとった日本唯一の天守閣となった。
会津藩は戊辰戦争の時も旧幕府軍として徳川家に忠心を貫いた。その心意気が城構えに顕れて、その城姿は凛として美しい。
旅の最後は
9. 会津藩校「日新館」へ
ここは、人材育成のため1803年に建設された会津藩の最高学府。約8千坪の敷地に武道場や天文台、日本最古のプールといわれる水練水馬池があり、新島八重の兄「山本覚馬」や白虎隊の少年達をはじめ多くの優秀な人材を輩出した。
人材育成こそが藩力改革の最重要課題と考えていた当時の藩主と家老の慧眼には恐れ入る。
そして
10.磐梯山の勇姿を背にして帰路へ
とても充実した2泊3日の車旅だったが、トラブルで時間が取れず、楽しみのバードウォッチングが出来なかったことが悔やまれた。また近いうちに訪れたいと思っている。
思うこと
1.会津人の気質について
二日目の夜、タクシーで繁華街にむかっている時
運転手の方が「周囲が磐梯山などの山々に囲まれているので、1年の内4分の1は 雪が降り、1メートル以上積もることは普通ですよ」と話してくれた。
- そんな風土が「閉鎖的で我慢強く、頑固」な気質を生んでいるのだろうと、容易に理解できた。
- 「浜通り」⇒開放的、「中通り」⇒新しい物好き、「会津」⇒保守的 と地理的に分けられて理解されるのもの当然である。
- ただし、一方で「情に厚く、正義感が強い」最も東北人らしい気質を持ち合わせていることも理解しなければならない。
- 何故なら、会津日新館の心得で「他人の悪口を言ったり、他人を理由もなく笑ったりしてはいけない」とか「ならぬことは ならぬものです」などが徹底的に教え込まれるからだ。
車がトラブルで大変な時、支配人や従業員の方などが心底親身になって手助けして頂いた、あの心遣いは一生忘れる事はできない。
2.福島弁について
最近、日経新聞に言語学者「井上史雄」氏が面白いことを書いている。
「福島弁」が南下して東京のことばに影響を与えた。というのだ。具体的には
「違う」の言い回し
- 過去の言い方は「違っていた」だが
- 近頃の若者は「ちがかった」「ちがくない」という言い方をする。
- これについて1980年代に調査したところ、北から東京下町へこの言い方が入って来たことが判明した。
- 福島ではすでに高齢層のことば「ちがぐねえ」と言っていたことが確認出来るので、福島弁が東京のことばに影響を与えたことは間違いない。
「〜みたいに」の言い回し
- 「みたく」も北から東京下町へ入った来た。
- 福島県では「牛みだく音たでで食うな」と言う。
「良くない」の言い回し
- 「いくない」も福島あたりから昭和期に徐々に南下してきた。
「てしまった」の言い回し
- 「ちまった」「ちゃった」「ちった」に変えたのも福島県の老年層が早い。
そして、井上氏は最後に以下のように結論づけている。
「福島人は活用を単純にしてことばを使い易くしたり、発音を楽にしている。福島弁は合理化を進めた結果だ」と。
また、井上氏はこう言って福島人をエールを送っている。
『福島人は将来の日本語を生み出す力をもっている。福島弁に自信を持って欲しい』と。
私も全く同感だ。
発音の合理性と響きの可愛らしさ。こう考えると、福島の方々は心より尊敬され愛される人たちなのだ。