一昨夜、妻と“横浜にぎわい座”へ、”立川志らく”のシリーズもの「新・志らく百席」第8回を聴きに行きました。
10年続けて来た「志らく百席」「続・志らく百席」シリーズの最新ものです。
今までの実績が評価されて、直ぐに前売り券が完売する人気シリーズです。
落語の全体像、志らくのこと、その他の噺家のこと等、色んなこと書きたいと思うのですが、聴いた演目の中で、ちょっと気になる噺があったので、少しその感想を書いてみたいと思います。
その話とは三つある演目の最後に披露されたもので、50分程度の大ネタでした。
その演目は『百年目』と言います。
三遊亭圓生師匠や古今亭志ん朝師匠が得意とした噺で、名作中の名作と言われています。
あらすじは次の通りです。
江戸時代、ある大商家に"冶兵衛"と言う一番番頭が居ました。
43才ですが、独り身で、店の二階に居つき、この年まで遊び一つした事の無い堅物で通っていました。
例えば、二番番頭が茶屋遊びで午前様になった時、「芸者という紗(しゃ)は、何月に着るのかな」「太鼓持ちという餅は煮て食うのか、焼いて食うのか教えてくれ」と皮肉を言う有り様でした。
そのようなピリピリした毎日が続く中、事件が起こります。
ある朝、いつものように小僧や手代にうるさく説教した後、「出店の様子見に行って来るから、後は宜しく頼むよ」と言って出掛けます。
番町のお屋敷を回ると、そこには太鼓持ちの"一八"が待ち構えて居ました。
実は、今日はこっそり入り浸っている芸者連中を引き連れて、向島へ花見に繰り出そうという趣向でした。
菓子屋の二階で高級な着物・羽織に着替え、屋形船へ向かいます。
小心な"冶兵衛"は最初は船の障子を締めていましたが、お酒が進むと次第に大胆になり、扇子で顔を隠して、向島土手で陽気に騒ぎ始めます。
その時、運悪い事に、店の旦那がお抱えの医者を連れて、向島に花見に来ていました。
そのうち、二人は土手の上で鉢合わせ。
顔を隠して踊っている"冶兵衛"は、上手く避けられなかった旦那に、芸者と勘違いしてむしゃぶりつき、弾みでばったりと顔が合ってしまいます。
一番怖い相手に芸者遊びの現場を見られて、"冶兵衛"は気が動転し、「お久しぶりでございます。ご無沙汰を申し上げております。いつもお変わりなく……」と訳の分からぬ言葉を口にします。
酔いもいっぺんに醒めた"冶兵衛"は逃げる様に店に戻ると、風邪を引いたと二階に駆け上がり、布団に潜り込みます。
「あんな醜態を旦那に見られたからには、もう駄目だ」と頭を抱えた "冶兵衛"は、「一層このまま夜逃げしようか」「いや、待てよ。旦那は優しい人だから今回は見逃してくれる」と気持ちが行ったり来たりし、一晩悶々として寝付けず、翌朝も帳場に座っていても生きた心地はしませんでした。
そこへ、ついに旦那からのお呼びがかかります。
「そら、おいでなすった」と、びくびくして母屋の敷居を跨ぎます。
すると、意外にも旦那は、昨日の出来事には全く触れずに、おもむろに『旦那』という言葉の訳について話し始めます。
話を聞き終えた"冶兵衛"は少しホッとすると同時に、自らを省みて深く頷きます。
「ところで、昨日は面白そうだったな。」と旦那は急に話題を変えます。
「いよいよ来たか」と急に心臓は高鳴り、しどろもどろの言い訳をします。
旦那はすこしも怒らず、「金を使うときは、商いの切っ先が鈍るから、決して先方に使い負けてくれるな」と、きっぱり言います。
「実は、お前さんがあれだけ派手な遊びをしているので、帳簿に穴が空いているのではと気になり、昨夜寝ずにひそかに調べたが、まったく間違いは無かったよ」と、"冶兵衛"を褒めたうえで
「自分で稼いで、自分が使う。お前さんは本当の器量人だ。約束通り、来年には店を持ってもらうよ」と言ってくれので、"冶兵衛"は感激して号泣します。
「それにしても、昨日『お久しぶりでございます』と言ったが、一つ家に居ながらご無沙汰てえのもなあ…… なぜあんなことを言ったんだい?」と気掛かりだったことを口にすると
「へえ、堅いと思われていましたのを、あんなざまでお目にかかり、もう、これが百年目と思いました」
《終わり》
オチの説明
『百年目』 とは、「ここで会ったが百年目」と言われるように、悪事が露見し「もう終わり、観念した(しろ)」ような時に使われる慣用句です。
この噺のオチは、"冶兵衛"が運悪くあの場面で旦那と出会い「もう終わりだ、観念した」ため、「お久しぶりでございます」と言い、『百年目』とカケたところです。
『旦那』という言葉の訳について
昔、天竺に栴檀(せんだん)という立派な木があり、その下に南縁草(なんえんそう)という汚い草が沢山茂っていた。
目障りだというので、南縁草を抜いてしまったら、栴檀が枯れてしまった。
調べて見ると、栴檀は南縁草を肥やしにして、南縁草は栴檀の露で育っていた事が分かった。
栴檀が育つと、南縁草も育つ。栴檀の“だん”と南縁草の“なん”を取って“だんなん”、それが“旦那”になったという。
こじつけだろうが、私とお前の仲も栴檀と南縁草だ。
店に戻れば、今度はお前が栴檀、店の者が南縁草。
店の栴檀は元気がいいが、南縁草はちと元気が無い。
少し南縁草にも露を降ろしてやって下さい。
こう言って、旦那は"冶兵衛"を優しく諭します。
終わりに
座内に居た社会人の多くの方々が、このシーンを聴きながら自分のこと、あるいは会社のことを思い浮かべたのではないでしょうか。
経営者(=旦那)は、部長・課長(=冶兵衛)を通じて、部下(=第2番頭、小僧・手代)が生き生きと仕事をしてくれることを望みます。
『上意下達』は、会社経営の基本です。
言い換えると、《意思の疎通》は組織の血管であり、不疎通は動脈硬化をもたらし、不健康な会社になります。
"冶兵衛"的人物は、高度成長期にはとても重宝がられた人材ですが、現在のような「不確実な時代」では、どうもうまく行きませんね。
馬鹿を言って周囲を笑わせる小僧を、”面白なあ”と一緒に笑ったり、二番番頭が茶屋遊びした時は、”遊びのコツ”を聴いて感心する等など
一方的な指示・命令だけに終始するのではなく
『私はお前にとても関心がありますよ、お前のことをもっと知りたい』といつも態度で示せば、第2番頭、小僧・手代たちは『冶兵衛さんはいつも俺たちを見ていてくれる、頑張らないと』と思い、店の雰囲気は大きく変わるのでしょう。
【共感】こそが、旦那の言う”露降ろし”だと思います。
こんな旦那が会社経営者だったら、「東芝」みたいな不幸は起きなかったのではないかと…… そんな思いで座を後にしました。